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ちくま日本文学 036:萩原朔太郎 1886-1942

萩原朔太郎 ちくま日本文学

▼ 月に吠える ▼

詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚の幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的はむしろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。詩とは感情の神経を摑んだものである。生きて働く心理学である。すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴う。これを詩のにおいという。(人によっては気韻とか気稟とかいう)においは詩の主眼とする陶酔的気分の要素である。したがってこのにおいの稀薄な詩は韻文としての価値の少ないものであって、言わば香味を欠いた酒のようなものである。こういう酒を私は好まない。詩の表現は素朴なれ、詩のにおいは芳純でありたい。私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表われた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらいたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言い現わしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによって表現する。しかしリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することのできる人とのみ、私は手をとって語り合うことができる。

人間は一人一人にちがった肉体と、ちがった神経とをもっている。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。人は一人一人では、いつも永久に、恐ろしい孤独である。 * 人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。とはいえ、我々は決してぼつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。 * 共通を人間同士に発見するとき、人間間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人間と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』ちが生れるのである。そして我我はもはや永久に孤独ではない。

詩は一瞬間における霊智の産物である。ふだんにもっている所のある種の感情が、電流体のごときものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとっては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。

以前、私は詩というものを神秘のように考えていた。 * しかし今から思うと、それは笑うべき迷信であった。詩とは、決してそんな奇怪な鬼のようなものではなく、実はかえって我我とは親しみ易い兄妹や愛人のようなものである。 * 私は詩を思うと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。詩を思うとき、私は人情のいじらしさに自然と涙ぐましくなる。

過去は私にとって苦しい思い出である。過去は焦燥と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であった。月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のような不吉の謎である。犬は遠吠えをする。私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまいたい。影が、永久に私のあとを追って来ないように。

▼ P.185 ~ P.186 ▼



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プロフィール

雪男

Author:雪男
Unidentified Mysterious Animal協会東京支部に所属するルポライター。記憶の一部を喪失し、「Eコース」の診療を受けつけてくれる精神クリニックを探している。

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